極東ロシアにある「ユダヤ自治州」:もうひとつの「約束の地」とその数奇な歴史
極東ロシアの南端、中国黒竜江省との国境に位置する「ユダヤ自治州」があるのをご存じだろうか。「ユダヤ」の名を冠した地域がこんな場所にあるのは、旧ソ連による社会実験の結果だが、その試みは失敗だったと評する人も少なくない。
アムール川沿いにあるユダヤ自治州には森林や湖沼、草原が広がっており、主要産業は農業だ。
写真:@denissskhrebtov / Unsplash
ユダヤ自治州はおもに亜寒帯湿潤気候に分類され、夏は蒸し暑いが、冬は乾燥した厳しい寒さが9ヵ月にわたって続く。
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NPR放送によれば、ロシアのユダヤ自治州は世界各地に離散していたユダヤ人共同体に土地を提供する試みとしてはイスラエルに並ぶものであり、1920年代に高まりを見せていたシオニズムとは別の選択肢として構想されたのだという。
写真:州都ビロビジャンの名をロシア語とイディッシュ語で併記した看板。
ユダヤ系ロシア人ジャーナリストのマーシャ・ゲッセン氏はNPR放送に対し、「ソ連の立場からすれば、ユダヤ人を連邦内で暮らすその他の民族と対等に扱うという試みでした」と解説。
1920年代にソ連が誕生すると、連邦内には民族グループごとの構成共和国が各地に設置された。なかでも、ロシア共和国が人口・面積の両面で最大の共和国だった。
しかし、このシステムをソ連で暮らすユダヤ人たちにそのまま当てはめることはできなかった。というのも、ロシア帝国時代のユダヤ人コミュニティは現在のウクライナやベラルーシに点在していたが、彼ら自身の土地と呼べるようなものはなかったのである。
そこで、ソ連政府は国内のユダヤ人を一ヵ所に移住させ、将来的には構成共和国を成立させるべく委員会を設置する。計画の過程では、もともとユダヤ人が多く暮らしていたクリミア半島が候補に挙がったりしている。
結局、1928年にスターリン自らユダヤ人を極東に移住させる決断を下す。このとき選ばれたのがビロビジャン一帯であり、年内に最初の移住者650人が到着。その後の数年間でユダヤ系の人口は数千人に膨れ上がった。
ユダヤ自治州に関する著作もあるジャーナリストのマーシャ・ゲッセン氏によれば、ビロビジャンに移住してきたユダヤ人は合計数万人に上るとのこと。
米国議会図書館の説明によれば、ロシア革命後、貧困に直面していたユダヤ人たちはユダヤ自治州について、ソ連当局の強権的な支配の及ばない辺境で新たな暮らしを始めるチャンスだと捉えていたようだ。
写真:1920年代のユダヤ自治州 / 米国議会図書館
また、当局によるプロパガンダも移住政策の推進に一役買った。ポスターやパンフレット、映画を通して連邦内のユダヤ人を極東ロシアへいざなったのだ。
当初は民族区に過ぎなかったが、1930年代には自治州に昇格。現在もロシア連邦内で唯一の自治州の地位を保っている。
しかし、スターリンがユダヤ人の移住を奨励したのには、連邦内の民族を平等に扱うという建前のほかに、もっと現実的な理由があった。
極東ロシアは人口が少ない上に長大な国境線で中国と接しており、ソ連は辺境防衛のための前哨基地を必要としていた。そのため、ユダヤ自治州の設置は一石二鳥だったというわけだ。
前出のマーシャ・ゲッセン氏がNPR放送に語ったところによれば、ソ連当局は国内のユダヤ人に片道航空券まで提供し、不自然なほど熱心に移住政策を推し進めたという。
しかし、極東に到着したユダヤ人たちが目にしたのは「約束の地」とは程遠い現実だった。多数の移住者がやって来た当時、ユダヤ自治州では道路や建物、病院、学校に至るまで、あらゆるものが不足していたのだ。
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1930年代、大粛清の嵐はユダヤ自治州にも及び、ユダヤ文化を奨励するような政策は格好のターゲットとなったほか、イディッシュ語の使用も中央政府に睨まれる理由となった。
しかし、ユダヤ人の流入は依然として続いており、第二次世界大戦後の1940年代後半にユダヤ系人口は4万5千人に到達、ピークを迎えた。
ところが、スターリン時代の末期、ソ連では「医師団陰謀事件」という大規模な反ユダヤ主義キャンペーンが展開される。その結果、ユダヤ自治州のユダヤ系人口は1950年代を境に急激に減少しはじめる。
ロシアの国勢調査によれば、現在ユダヤ自治州内で暮らすユダヤ人はわずか1,600人ほどとなっており、州の総人口17万5,000人の1%にも満たない。
とはいえ、ユダヤ自治州はロシア連邦の一員となった今も、ユダヤ文化の振興に努めており、ビロビジャンの駅前広場には世界最大のメノーラー(ユダヤ教を象徴する燭台)が置かれている。