ジョー・バイデン米大統領の生い立ち:ホワイトハウスへの波乱万丈な道
コロナ禍の収束に歩っとする間もなくロシアがウクライナに侵攻、世界情勢は混迷を極めている。米国大統領ジョー・バイデンがめざましい成果を挙げるのは容易ではなさそうだ。
長年、上院議員を務め、逆境にめげずに何度も挑戦した末、ホワイトハウスの主となったジョー・バイデン大統領。今回は、その人物像を見てゆこう。
1942年11月20日、ニューヨーク州スクラントンで誕生したジョー・ロビネット・バイデン・ジュニア。10歳のときに家族そろってデラウェアに引っ越した。写真は70年代初頭の若きジョー・バイデン。
未来の米国大統領は1966年に最初の妻、ネイリア・ハンターと結婚。2年後の1968年にはシラキュース大学法科大学院を修了している。
2年間、ニューキャッスル郡議員を務めたのち、1972年に米国史上5番目の若さ(29歳)でデラウェア州の上院議員となった。
民主党から立候補したバイデンは若くパワフルな新人として、当時議席にあった共和党上院議員J・カレブ・ボッグス(写真)に挑戦、1.4%の得票差で勝利を手にした。
しかし、まもなく若き上院議員を悲劇が襲った。選挙戦を制したわずか数週間後に、妻ネイリアと1歳の娘ナオミを自動車事故で亡くしてしまったのだ。
二人の息子、ボーとハンターの兄弟は辛くも命を取り留めたが、ジョー・バイデンは二人が入院する病院で上院議員の宣誓をしなくてはならなかった。
幼い息子たちの面倒をみるため上院議員の辞任も考えていたジョー・バイデンだが、上院の院内総務を務めるマイケル・マンスフィールドに説得され、思いとどまった。さもなくば、バイデンの政治的キャリアはここで終わっていたかもしれない。
亡き妻と娘を追悼するため、ジョー・バイデン大統領は自動車事故のあった12月18日に仕事をしないことにしている。
上院議員の仕事を全うするため、デラウェアの自宅からワシントンD.C.まで毎日2時間かけて電車通勤していたバイデン。まだ小さい息子たちのそばにいるためだった。
1977年には教育学者ジル・トレーシー・ジェイコブスと再婚。以来、人生を共にしている夫妻には娘、アシュリーがいる。
若きバイデン上院議員はただちに環境問題、消費者保護、政府の説明責任といった課題に取り組み始めた。
しかし、36年間の上院議員生活のなかで、物議を醸すような決定も下しているバイデン大統領。
1970年代半ばには、上院におけるバス通学反対派の代表となったバイデン。バス通学とは様々なコミュニティに属する学生を一緒にバス通学させることで差別撤廃を図るというものだった。このときのバイデンの言動は、2020年の民主党候補者指名に際して議論を呼ぶことになった。
1994年には、暴力犯罪取り締まりおよび法執行法(Violent Crime Control and Low Enforcement Act)の可決を支援したジョー・バイデン。クリントン犯罪法あるいはバイデン犯罪法とも呼ばれるこの法律は、貧困地域での大量投獄を引き起こしたとして強く批判されることになった。バイデン大統領は2009年に、法の承認は「大きな間違いだった」と認めた。
LGBTコミュニティでの評判も芳しくないバイデン大統領。1993年には米軍内での同性愛禁止に賛成票を投じたほか、1996年には結婚防衛法を支持。この法律によって、同性カップルの結婚は連邦法レベルで禁止されてしまった。
1988年には健康上の問題で政府の職務から遠ざかっている。首の痛みの原因が脳動脈瘤であることが発覚したのだ。さらに、療養中には肺塞栓症および2度目の動脈瘤に悩まされた。
ホワイトハウスは常にジョー・バイデンの目標だった。1987年には、民主党の候補者指名を目指しキャンペーンを行っている。
しかし、キャンペーン中の演説が英国の政治家、ニール・キノックの真似だったことが発覚、不評を買うことに。しかし、労働党リーダーのキノックはこれを好意的に受け止めた。写真は1990年に撮影されたもので、両者が良好な関係を維持していたことを示している。
結局、1988年の米大統領選で民主党候補になったのはマイケル・デュカキス。共和党のジョージ・ブッシュに敗れた。
20年後の2007年、再挑戦したジョー・バイデンだったが、党の候補者指名はバラク・オバマの手に渡った。
しかし、キャンペーン中に信頼関係が生まれたオバマとバイデン。その結果、大統領となったオバマはバイデンを副大統領に任命することに。
2009年には上院議員の職を引退。在職期間は米国史上4番目の長さだった。
副大統領時代には、物腰の柔らかな年配男性のイメージを作り上げた。トレードマークはパイロットサングラス。
しかし、2015年、再び悲劇に見舞われたバイデン一家。長男のボー・バイデンが脳腫瘍により46歳の若さでこの世を去ったのだ。
2016年、息子の死からいまだ立ち直れないバイデンはこの年の大統領選を見送った。しかし、自著『約束してくれないか、父さん:希望、苦難、そして決意の日々』にもあるとおり、ジョー・バイデンは息子のボーに何があってもくじけないと誓っていた。
2020年、ジョー・バイデンは77歳にしてついに米大統領選に立候補するチャンスを手にした。
しかし、選挙戦は容易ではなかった。両候補者ともに70代であり、当時大統領を務めていた共和党のドナルド・トランプよりもさらに4歳年上のバイデン候補には多くの批判が集まったのだ。
ドナルド・トランプ元大統領は、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に圧力をかけ、軍事的援助の見返りとして、ハンター・バイデンが同国で行っていた事業を調査するよう求めた。
この、ウクライナに関するスキャンダルによって、トランプ元大統領は2019年に1度目の弾劾決議を受けることになった。
しかし、ことはそれだけに留まらなかった。2020年の大統領選挙では、トランプ元大統領および彼の支持者たちが投票結果を不服として、選挙無効を求める声を上げたのだ。
この動きは、2021年1月6日のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件で最高潮に達した。米国史上まれに見る混乱であり、クーデターの試みだったと考える人もいるくらいだ。
その結果、ドナルド・トランプ元大統領はホワイトハウスを去る際に再び弾劾されることになった。今回の容疑は暴動を扇動したこと。
波乱を乗り越えて第46代米大統領に就任したジョー・バイデン。2024年の選挙で2期目を狙うとしているが、82歳での再選は簡単ではないはずだ。