住まいはパリ空港?:18年間空港で暮らし、映画のモデルになった男性が死去
パリのシャルル・ド・ゴール国際空港第1ターミナルで18年間も暮らした「サー・アルフレッド」ことマーハン・カリミ・ナセリ。その信じがたいエピソードは世界中で話題を呼び、トム・ハンクス主演映画『ターミナル』のモデルにもなった。
ナセリがこうした状況に陥った原因については、本人の説明が二転三転したことからいくつかの説がある。
ともあれ、母国イランと政治トラブルが生じ、それをきっかけに亡命を図ったというのが一般的な見解となっている。
1970年代初頭、ナセリはイギリスのブラッドフォード大学に留学し、大学在籍中にイラン最後の皇帝パフラヴィー2世に対する反体制活動に参加。1977年に母国へ帰国して間もなく刑務所に投獄され、その後反政府活動をした罪で国外に追放された。
1981年、ナセリはベルギーで難民として認められた。そのため欧州諸国で市民権を申請することが可能になり、留学をしたことのあるイギリスに戻ることを計画した。
しかしフランスからイギリスに渡航する最中、ナセリは難民証が入ったバッグを紛失してしまう。難民の証明がなくてはイギリスへの入国は許可されず、フランスに戻らなければならなかった。
画像: Clem Onojeghuo / Unsplash
フランスに到着したナセリは警察に逮捕されるが、違法行為の証拠がとくになかったことから釈放され、パリの空港に置き去りにされてしまった。
ナセリはシャルル・ド・ゴール空港が国際的な空間であることを理由に空港に留まることを選択する。しかし、難民証を紛失したことで、パリ空港を出てフランス市内に入ることも他の国へ行くこともできなくなってしまった。しかも、難民に認定されるということは、もはやイラン市民ではないということを意味していた。
そして、18年間にわたるナセリの空港暮らしが始まった。空港職員によれは、ナセリは空港のトイレで身体を洗い、ターミナル内のマクドナルドで食事を取り、ほとんどの時間を読書と人間観察に費やしていたという。
パリ空港を行き来する人々の中には彼の存在に気づき、お金を恵んでくれることもあったという。また、ときには空港で清掃の手伝いをすることもあった。
やがてフランスの人権派弁護士であるクリスチャン・ボルゲがナセリの境遇を知ることになった。ナセリの話を聞いた彼は手続きを始めるが、すぐに大きな壁に直面することになる。
ナセリを難民と認め、難民証を発行した国はベルギーだったが、本人が直接窓口に出向かないかぎり難民証の再発行は認められないというのだ。しかし、肝心の難民証がないためベルギーへの渡航をすることはできない。
10年以上にわたる陳情の末、ついに1999年にボルゲ弁護士はベルギー当局の説得に成功し、ナセリの難民証を送付してもらうことに成功した。しかし驚いたことにナセリはその難民証を「偽物」と判断し、受け取りを拒否。パリ空港に留まることを選択したのだ。このときの言動により、ナセリは正常な判断ができなくなったのではという疑いがもちあがった。
とりわけ、ナセリが自身をイラン人ではなくイギリス人だと考え、「サー・アルフレッド」と名乗ったことがこの疑惑をさらに深めることになった。実際、ナセリが難民証の受け取りを拒否するという前代未聞の行動に出たのは、そこに記載された氏名が「サー・アルフレッド」ではなく本名「マーハン・カリミ・ナセリ」だったからではといわれている。
2006年、ナセリは原因不明の病気にかかり、空港を出て入院することになった。1988年にパリ空港で足止めになって以来、そこを離れるのは初めてだった。翌年に退院し、パリのホームレスシェルターに入所したことが報じられてからはその動向は不明となっていた。
2004年、ナセリの自叙伝『ターミナルマン』が出版された。本書はイギリス人作家アンドリュー・ドンキンとの共著で、『サンデー・タイムズ』紙は「心を深く揺さぶる素晴らしい出来栄え」と高く評価した。
ナセリの驚くべき物語をベースに、1994年にフランス映画『Tombés du ciel』(日本では『パリ空港の人々』として知られる)が公開された。また、米国の作家マイケル・パターニティも短編小説『The Fifteen-Year Layover』を通してナセリの半生を描いている。
さらに、『Waiting for Godot at De Gaulle』(2000年)、『Sir Alfred at Charles de Gaulle Airport』(2001年)といったナセリの人生を描いたドキュメンタリーも発表された。
2004年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の『ターミナル』もナセリをモデルとしているとされる。ただし、トム・ハンクス主演のこの作品の資料やウェブサイトには、ナセリがモデルであるとは記されていない。
とはいえ、『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば、スティーブン・スピルバーグ監督はナセリの半生を映画化するにあたり原作使用料を支払っており、映画制作会社ドリームワークスがナセリ本人に25万ドルを渡したという。また2004年当時、まだ空港に住んでいたナセリは、スティーブン・スピルバーグ監督の映画ポスターを持ち歩いていたとも伝えられている。
ナセリは2006年、健康上の理由で空港を離れている。念願のイギリスに渡ったのではないかという噂もあった。実際は『ターミナル』の映画制作会社から得た収入でホステルに滞在し、2007年からはパリのホームレス収容者施設「エマウス」で暮らしていたが、2022年10月にシャルル・ド・ゴール空港に戻ってきた。数週間を経た11月12日、ナセリは18年間を過ごし、住み慣れたわが家となったパリ空港の第2ターミナルで心臓発作により息を引き取った。