再選なるか?フランスのマクロン大統領:画像で追うその来歴

フランスのマクロン大統領の軌跡
1977年:ソンム県アミアンで誕生
1994年:リセ・ラ・プロヴィダンス
1998年:パリ政治学院
2001年:政界デビュー
2002年:フランス国立行政学院
2004年:レオポール・セダール・サンゴール賞
2006年:社会党員として
2007年8月:アタリ委員会
2007年10月:ブリジットとの結婚
2008年9月:銀行家に
2011年:フランソワ・オランド候補支持
2012年5月15日:政府事務総局
2014年6月10日:政権を去る
2014年8月26日:経済・財務大臣
2014年11月:アルストム・パワーの売却
2015年7月:フランス王への憧れ
2015年8月6日:マクロン法
2016年4月6日:「共和国前進」党
2016年8月30日:経済・財務大臣を辞任
2016年11月16日:正式に立候補
2017年4月23日:第一回投票をリード
2017年5月3日:白熱する議論
2017年5月7日:フランス共和国大統領に
2017年5月14日:大統領就任
2017年5月15日:就任後初の外国訪問はドイツ
2017年5月29日:プーチン露大統領のフランス訪問
2017年6月1日:「Make Our Planet Great Again」
2017年7月13日:「私はあなたの上司です」
2017年:相次ぐ改革
2017年9月26日:ソルボンヌ大学での演説
2018年1月17日:ナント新空港建設計画の中止
2018年5月:ベナラ事件
2018年9月:教育改革
2018年11月:黄色いベスト運動
2019年1月:「国民大討論」
2019-2020年:年金改革の失敗
2020年春:地方選挙での失敗
2020年3月16日:新型コロナウイルス対策
2020年7月6日:ジャン・カステックス首相
2020年10月30日:新たなコロナウイルス対策
2021年5月23日:エピソード対決
2021年7月12日:ワクチン接種の推進
2021年9月:「世紀の契約」の破棄
2021年12月15日:再選を目指すマクロン大統領
フランスのマクロン大統領の軌跡

決選投票を迎えたエマニュエル・マクロン仏大統領。今回は現フランス大統領のこれまでを、ターニングポイントごとに振り返ってみよう。

 

1977年:ソンム県アミアンで誕生

1977年12月21日、アミアンで誕生したマクロン大統領。父のジャン=ミシェル・マクロンは神経学者、母のフランソワーズ・ノゲスも医師だ。マクロン大統領は故郷アミアンで子供時代を過ごした。

1994年:リセ・ラ・プロヴィダンス

アミアンのカトリック系学校、リセ・ラ・プロヴィダンスで学んだ若きマクロン大統領。そこでフランス語教師のブリジット・トロニューと出会い、恋に落ちることになる。マクロン大統領は1994年の全国フランス語コンクールで「地域賞」を獲得している。

1998年:パリ政治学院

高等師範学校の入学試験に失敗したマクロン大統領は、ナンテール大学で哲学を学ぶ傍ら1998年にはパリ政治学院にも入学している。

2001年:政界デビュー

2001年のパリ地方選挙ではジャン=ピエール・シュヴェーヌマン率いる「市民運動」の候補者を支持。2002年の大統領選挙でもシュヴェーヌマンに投票した。

2002年:フランス国立行政学院

2002年にはフランス国立行政学院(ENA)の入学試験に合格。ストラスブールのキャンパスで新たな学友とともに2年間を過ごすこととなった。

 

2004年:レオポール・セダール・サンゴール賞

2004年にはENA卒業にあたってレオポール・セダール・サンゴール賞に選ばれたほか、経済・財務省の財務監督局に入局した。

 

2006年:社会党員として

2006年、当時野党だった社会党に入党。数年間、活動に加わったものの、地方選挙で党の候補になることはなかった。

2007年8月:アタリ委員会

若き検査官マクロンは2007年夏、経済学者のジャック・アタリ率いる「アタリ委員会」に参加。当時のニコラ・サルコジ大統領が推進していた経済成長解放政策を策定した。未来のフランス大統領はここで政府高官や経済界の重鎮と交流することになった。

 

2007年10月:ブリジットとの結婚

高級官僚となったマクロン大統領は、学生の頃から恋人だったブリジット・トロニューと2007年10月20日にフランス北部の町ル・トゥケ=パリ=プラージュで結婚した。

2008年9月:銀行家に

N・M・ロスチャイルド&サンズ銀行に入行したマクロン大統領。ネスレ社やアトス社をはじめとした大口顧客の取引を仕切ることになった。

2011年:フランソワ・オランド候補支持

当時、投資銀行家だったマクロン大統領だが、鋭い政治的センスを持っているのは確かだった:「ソフィテル事件」でドミニク・ストロス=カーンが失脚する前からフランソワ・オランド候補支持を表明していたのだ。

2012年5月15日:政府事務総局

ニコラ・サルコジ候補を破って大統領となったオランドは、自分を支持したマクロンを政府事務総局の副長官に任命した。

 

2014年6月10日:政権を去る

マニュエル・ヴァルス政権で入閣できなかったため、2014年6月に政府事務総局副局長を辞任。教育分野の個人的活動に専念するつもりだと語った。

2014年8月26日:経済・財務大臣

当時まだ無名だったマクロン大統領だが、驚いたことにアルノー・モントブール経済・財務大臣の後任を務めることに。ここ50年あまりで最年少の経済・財務大臣となった。

2014年11月:アルストム・パワーの売却

2014年末、マクロンは経済・財務大臣として、原子力発電所のタービンの製造などに携わるアルストムの原子力事業部門を米ゼネラル・エレクトリックに売却することを許可した。フランスの自立性を危うくしかねないこの判断は未だに議論の的になることがある。

 

2015年7月:フランス王への憧れ

2015年7月、ウェブサイト「Le 1」のインタビューで、かつてのフランス王たちへの憧れを表明したマクロン大統領。フランス大統領がかつての王の役割を果たさなくてはならないというのだ。すでに、大統領選立候補が念頭にあったのだろうか?

 

2015年8月6日:マクロン法

翌年、経済活動の解放を目的とする「マクロン法」が激しい議論の末、公布された。この中には自動車産業の自由化が含まれている。

2016年4月6日:「共和国前進」党

もはや野心を隠そうとしなくなったマクロンは、フランソワ・オランド大統領から徐々に距離をとるようになった。そして2016年の春、ついに自身の政党「共和国前進」を設立した。

2016年8月30日:経済・財務大臣を辞任

同年8月、経済・財務大臣を辞任し、2017年の大統領選挙を視野に入れた新党の活動に専念するようになった。

2016年11月16日:正式に立候補

大統領選がスタートするとマクロンは立候補を表明。その後、当時のフランソワ・オランド大統領は再立候補を断念した。

 

2017年4月23日:第一回投票をリード

得票率24%あまりを獲得し、第一回投票でトップに立ったマクロン元経済・財務大臣。決選投票はマリーヌ・ル・ペン候補との一騎打ちとなった。

2017年5月3日:白熱する議論

両候補者が決選投票に向けて行った議論は白熱。しかし、ル・ペン候補が的外れな主張をしたことで、マクロン候補が選挙戦を制することに。

2017年5月7日:フランス共和国大統領に

5月7日、2/3近い得票率でフランス共和国大統領に選出されたエマニュエル・マクロン。一方で、有権者の1/4は棄権を選んだ。就任演説はルーブル美術館のピラミッド前で行われた。

2017年5月14日:大統領就任

1週間後、フランソワ・オランド前大統領から正式に政権を託されたマクロン大統領は、フランス史上最年少で第25代大統領に就任した。

2017年5月15日:就任後初の外国訪問はドイツ

就任の翌日にはエドゥアール・フィリップを首相に任命。同日、ベルリンを公式訪問し、ドイツのアンゲラ・メルケル首相と会談を行った。

2017年5月29日:プーチン露大統領のフランス訪問

悪化していた仏露関係の改善を目指し、就任間もないマクロン大統領はウラジーミル・プーチン大統領をヴェルサイユ宮殿に招いた。両大統領は翌年、ロシアW杯の決勝で再会することとなった。

2017年6月1日:「Make Our Planet Great Again」

マクロン大統領は、第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP 21)で採択されたパリ協定からの離脱を掲げたトランプ米大統領を批判。トランプ大統領の選挙スローガンをもじって「Make Our Plant Great Again(偉大な地球を再び)」とツイートした。

 

2017年7月13日:「私はあなたの上司です」

フランス軍向けの演説では国防予算を削減する方針を確認。これに対し、ピエール・ド・ヴィリエ統合参謀総長は公然と反発したが、マクロン大統領は「あなたの上司は私だ」と一喝した。しかし、この一件は大統領の指導力に疑問を投げかけることにもなった。

 

2017年:相次ぐ改革

就任数ヶ月後には、大統領主導で労働法や税制の改革に着手。反対派は「金持ちのための大統領」だという批判を展開したが、法案は採択された。

 

2017年9月26日:ソルボンヌ大学での演説

9月26日、ソルボンヌ大学のホールで演説を行ったマクロン大統領。内容はヨーロッパ統合の推進とその詳細だった。

2018年1月17日:ナント新空港建設計画の中止

ナント新空港の建設計画に関しては、数年前から反対派が「ZAD(開発計画地の占拠)」で抗議を行っていた。事態の膠着を前に、マクロン大統は2018年1月に計画中止を決定。しかし、ZADは警察の手で撤去された。

2018年5月:ベナラ事件

2018年5月、マクロン大統領の元ボディーガードで警官のアレクサンドル・ベナラがデモ隊参加者に暴力を振るう事件が発生。職権乱用であるとしてスキャンダルに。

2018年9月:教育改革

2018年9月、公立学校ではいくつかの教育改革が実施された。具体的にはバカロレアの監督強化や小学校における優先科目の授業数増加などが挙げられる。

2018年11月:黄色いベスト運動

2018年末、燃料価格の高騰および地方道路の速度制限強化に対する抗議運動はフランス全土に波及。黄色いベストに身を包んだデモ隊が全国の交差点を占拠したほか、パリでは大規模なデモが行われた。マクロン大統領は購買力支援措置を発表して対応した。

2019年1月:「国民大討論」

2019年1月、社会・政治的危機に対処すべく、マクロン大統は「国民大討論」をスタートさせた。

2019-2020年:年金改革の失敗

2019年の秋、年金改革が発表されると、いくつかの業界や労働者組合が強く反発。公共交通機関をはじめ大規模なストライキが実施された。争議は数ヶ月続いたが、2020年3月に新型コロナウイルスが流行しだしたためデモは鎮静化した。

2020年春:地方選挙での失敗

パリ市長選に出馬したマクロン派のバンジャマン・グリヴォーだったが、不適切なビデオがスキャンダルになり、立候補を断念。すぐさま連帯・保健大臣のアニェス・ビュジンが代わりに出馬した。序盤は選挙戦を優位に進めたものの、新型コロナウイルスの流行で逆境に立たされたマクロン陣営は、6月末に行われた後半戦で主要都市における過半数を獲得することができなかった。

2020年3月16日:新型コロナウイルス対策

ヨーロッパで新型コロナウイルスが猛威を振るう中、マクロン大統領は3月16日にテレビ演説を行い、緊急措置の実施を発表した。ウイルスの拡散を防ぐため、不可欠な仕事の場合を除き、市民の外出が制限されたのだ。

2020年7月6日:ジャン・カステックス首相

マクロン大統領は、ロックダウンの段階的廃止を遂行したジャン・カステックスをエドゥアール・フィリップ前首相の後任に任命。タレント弁護士のエリック・デュポン=モレッティを司法相に任命するなど、大統領の人事は驚きをもって迎えられた。

2020年10月30日:新たなコロナウイルス対策

新型コロナウイルスの第2波に対応するため、マクロン政権は2020年末、夜間外出制限や店舗および施設の閉鎖、集会や移動の制限といった措置を取った。

2021年5月23日:エピソード対決

翌年5月、若者の間でのイメージ改善を図るマクロン大統領は、ユーチューバーのマクフライ&カルリートとともにエリゼ宮から「エピソード対決」を放送した。これは、それぞれが信じがたいエピソードを紹介し、それが実話か作り話かを当てるというものだ。サッカーフランス代表のキリアン・エンバペ選手に即興で電話するといったパフォーマンスもあり、24時間で800万回以上再生された。

2021年7月12日:ワクチン接種の推進

7月12日、マクロン政権は公共施設への立ち入りに健康パス(回復証明、ワクチン接種証明またはPCR検査結果)の提示を求める措置を延長した。

2021年9月:「世紀の契約」の破棄

2021年9月、フランスとアングロサクソン諸国は外交的な危機に陥った。というのも、オーストラリア政府がフランスから潜水艦を購入する約束を反故にして米国から技術供与を受けることにしたためだ。数週間後にドバイで開催された航空サミットではフランス企業が多くの契約を勝ち取ったものの、この「世紀の契約」破棄はフランスに後味の悪さを残した。

2021年12月15日:再選を目指すマクロン大統領

大統領選が始まり、多くの候補者が出馬を表明する中、マクロン大統領は12月15日にTF1放送のインタビュー番組に出演して5年間の任期を振り返った。そして、2022年4月、フランス国民はマクロン大統領に2期目を任せるかどうか決めることになる。

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